日薬理誌(Folia Pharmacol. Jpn.)145,70∼73(2015)

特集

糖尿病網膜症の新規予防/治療薬の探索に向けて 糖尿病ラットにおける網膜循環障害機序

生活習慣病と循環器疾患研究の新展開 4

森  麻美,坂本 謙司,中原  努,石井 邦雄

要約:糖尿病網膜症は後天性失明の主要な原因疾患で あり,視覚障害原因の第一位を占める疾患である.こ

1. はじめに

の糖尿病網膜症の発症には網膜循環障害の関与が示唆

ヒトは外界からの情報の約 8 割以上を視覚から取得

されており,それに引き続く網膜虚血および低酸素状

している.従って,視機能の低下は,Quality of Life を

態が病態をさらに悪化させる.従って,糖尿病発症早

著しく低下させる原因となりうる.日本の視覚障害者

期における網膜循環不全の改善が,糖尿病網膜症の発

数は 31 万人であり,年齢階級別にみると高齢になる

症および進行を予防あるいは遅延させるための有用な

ほどその数は増加する(1).視覚障害をもたらす代表

治療戦略となりうる.しかし日本においては,網膜脈

的な疾患としては糖尿病が挙げられる.平成 23 年度

絡膜循環障害に適応のある薬物はカリジノゲナーゼの

の調査では,糖尿病患者数は 270 万人と報告されてお

みである.そこで我々は,独自に構築した小動物用 in

り(2),この調査が医療施設を利用する患者における

vivo 網膜血管径計測システムを用い,新規網膜循環改

実態調査であることを考慮すると,糖尿病患者数はさ

善薬の探索を目標に,健常ラットおよび糖尿病をはじ

らに多いものと予想される.糖尿病では様々な合併症

めとする病態モデルラットにおける網膜循環調節機構

を発症するが,糖尿病の三大合併症のひとつである糖

に関する研究を進めてきた.その結果,ラット網膜血

尿病網膜症は,日本における後天性失明原因の約 19%

管にはグアニル酸シクラーゼの発現が非常に少ないこ

を占めており,原因疾患の第二位である (3) .食生活

と,また一酸化窒素(NO)による網膜血管拡張反応は,

の欧米化に伴う生活習慣病の増加と,高齢化が問題と

一部がシクロオキシゲナーゼ-1(COX-1)に由来した

なっている日本において,視覚障害者数は今後も増加

プロスタノイドの産生を介していることが明らかに

することが予想され,誰もが罹患しうる糖尿病網膜症

なった.NO による降圧反応にこの機序の関与は認め

は,視覚障害をもたらす原因として特に注目すべき疾

られないことから,網膜血管は他の血管床とは異なる

患である.

特殊な拡張機序を有していることが示唆された.また,

高血糖になると,網膜血管の異常や網膜血流障害に

糖尿病早期のモデルラットでは,網膜血管の形態や網

伴い,網膜が虚血状態に陥る.これが進行すると糖尿

膜毛細血管密度に変化はないものの,アセチルコリン

病網膜症を発症し,網膜前の硝子体内に脆弱な新生血

2+



(ACh)の高コンダクタンス Ca 活性化 K (BKCa)

管が生じて眼底出血や網膜剥離を引き起こし,視覚障

チャネルを介した網膜細動脈の拡張反応が減弱するこ

害をもたらす.眼底所見では明らかな異常が観察され

とも見出した.これらの結果から,高血糖による BKCa

ず,糖尿病網膜症と診断されない糖尿病初期の段階に

チャネルの機能障害は,網膜血管機能異常をもたらし,

おいて網膜血流が低下する.従って我々はこの段階で

糖尿病網膜症の発症に寄与していることが示唆された.

網膜血流障害を改善することにより,糖尿病網膜症の

従って,BKCa チャネルの機能障害を抑制し,網膜循環

発症や進行を抑制することが,視覚障害を予防するう

障害を改善するような薬物は,糖尿病網膜症の発症や

えで重要であると考えている.しかし,日本において

進行を予防する有用な治療薬となる可能性がある.

網膜脈絡膜の循環障害に適応のある薬物はカリジノゲ

キーワード:糖尿病網膜症,網膜循環,NO,BKCa チャネル,酸化ストレス 北里大学 薬学部 分子薬理学教室(〒108-8641 東京都港区白金 5-9-1) E-mail: [email protected] 原稿受領日:2014 年 10 月 21 日,依頼原稿 Title: Mechanisms underlying dysfunction of retinal blood vessels in diabetic rats Author: Asami Mori, Kenji Sakamoto, Tsutomu Nakahara, Kunio Ishii

糖尿病網膜症の新規予防/治療薬の探索に向けて

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ナーゼしか存在しない.従って,新たな網膜循環改善

管において NO は一部アラキドン酸カスケードを介し

薬の開発が急務であると考え,我々は健常時および病

て拡張反応を引き起こすことが示唆された(11).さら

態時の網膜循環調節機構の解明と網膜循環改善薬の探

に,最近の研究により,NO 供与体による網膜血管拡

索を目標として研究を進めている.

張反応は,プロスタサイクリン(PGI2)の作用点であ

2. 健常ラットを用いた網膜循環拡張機序の解 明および網膜循環改善薬の探索 網膜血管は自律神経支配を受けておらず(4),その

る IP 受容体遮断薬によって COX 阻害薬の場合と同程 度まで抑制されることも示された.従って,NO はア ラキドン酸カスケードを活性化し,PGI2 産生を介し た細胞内 cAMP の蓄積により,網膜血管拡張反応を引

循環調節には循環血液中のカテコラミンやホルモン,

き起こすことが示された(図 1).NO による拡張反応

また血管内皮細胞(5, 6)や網膜組織(7, 8)から遊離さ

が PGI2 を介することは,摘出ブタ網膜血管を用いた

れる局所性因子が網膜循環調節機構において重要な役

研究においても報告されており(12),網膜血管床には

割を演じている.血管内皮細胞から産生される一酸化

他の血管床とは異なる特殊な血管緊張性調節機序が存

窒素(NO)は,血管平滑筋に存在する可溶性グアニル

在すると言える.

酸シクラーゼを活性化し,細胞内 cGMP を増大させて

網膜循環改善薬の開発のためには,降圧反応など副

血管を拡張させることが知られている(9).この NO

作用の少ない,網膜血管に選択的に作用するような薬

は網膜血管においても拡張反応を引き起こし,網膜血

物の探索が必須である.我々は,NO による網膜血管

流を増大させるが(10),大変興味深いことに,我々は

拡張機序の結果より,cAMP を増大させる薬物が網膜

ラット網膜血管にグアニル酸シクラーゼの発現が少な

循環改善薬の候補になると考え,種々の血管拡張薬に

いことを見出した.また,NO 供与体による網膜血管

関して検討を進めてきた.その結果,アドレナリン b3

拡張反応がグアニル酸シクラーゼ阻害薬により抑制さ れない一方で,アデニル酸シクラーゼ阻害薬により抑

受容体刺激薬(13),プロスタグランジン E2 の作用す

る受容体の一つであるプロスタノイド EP2 受容体刺

制されることが明らかになった.さらに,NO による

激薬(14)およびホスホジエステラーゼ 4 阻害薬(15)

網膜血管拡張反応は健常ラット網膜血管に発現してい

が他の血管と比較して網膜血管により強く作用するこ

るシクロオキシゲナーゼ-1(COX-1)の阻害薬により

とを報告している.また,アドレナリン b3 受容体刺激

抑制され,その程度はアデニル酸シクラーゼ阻害薬に よる抑制と同程度であった.以上の結果より,網膜血

図 1 ラット網膜血管拡張機序

薬および EP2 受容体刺激薬に関しては,網膜神経障害 を抑制することも明らかにしている(16, 17).従って

我々がこれまでに明らかにしたラット網膜血管拡張機序の一部を示す.アセチルコリン(ACh)は一酸化窒素(NO),プロスタグ ランジン(PG)および内皮由来過分極因子(EDHF)の放出を介してラット網膜血管を拡張させる.NO は細胞内 cGMP の増大よ りもむしろシクロオキシゲナーゼ-1(COX-1)由来のプロスタサイクリン(PGI2)産生を介して cAMP を増大させることにより網 膜血管拡張作用を示す.また,EDHF は高コンダクタンス Ca2+活性化 K+(BKCa)チャネルの活性化を介して網膜血管を拡張させ る.AC:アデニル酸シクラーゼ,EP:プロスタノイド EP2 受容体,IP:プロスタノイド IP 受容体,Kv:電位依存性 K+チャネル, PLA2:ホスホリパーゼ A2,PGIS:プロスタサイクリン合成酵素,sGC:可溶性グアニル酸シクラーゼ,VDC:電位依存性 Ca2+ チャネル,b2:アドレナリン b2 受容体,b3:アドレナリン b3 受容体.

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これら薬物は,糖尿病網膜症のみならず,網膜神経障

NO 放出が関与しているアデノシン,NO 供与体およ

害に伴って網膜循環不全を生じる緑内障に対しても有

びアデニル酸シクラーゼ活性化薬による網膜血管拡張

用な予防/治療薬となることが期待される.

反応は健常ラットと比較して差は認められなかった

3. 糖尿病モデルラットを用いた網膜循環拡張 機序の解明

(18).これらの結果は,NO 放出能や NO-アラキドン 酸カスケードにおける網膜血管拡張機序は影響を受け にくいことを示唆している.そこで次に,ACh の内皮

我々はこれまで,糖尿病に起因する網膜循環障害機

由来過分極因子(EDHF)を介した網膜血管拡張反応

序を明らかにするため,1 型糖尿病モデルラットを用

について検討するため,NO 合成酵素阻害薬および COX

いて,各種血管作動性物質に対する網膜血管の反応性

阻害薬存在下における ACh の反応について検討した.

変化について検討を行ってきた.我々は,ラットにス

その結果,ACh の EDHF 様網膜細動脈拡張反応が本糖

トレプトゾトシンを静脈内投与して糖尿病を惹起させ,

尿病モデルにおいて減弱していた(19).ACh の EDHF

5%グルコース水を飲水として与えることで,重度糖

様網膜血管拡張反応は,高コンダクタンス Ca2+活性化

尿病モデルを作製している.このモデルでは,ストレ

K+(BKCa)チャネル活性化を介することが明らかに

プトゾトシン単独投与糖尿病モデルと比較して,より

なっているため(20),BKCa チャネル機能について観

短期間に再現性良く網膜血管機能障害を発症する(18).

察した結果,本糖尿病モデルでは BKCa チャネル活性

重度糖尿病の発症 2 週間後において,網膜細動静脈お

化薬による網膜細動脈径増大反応がほぼ完全に抑制さ

よび毛細血管の内皮細胞の脱落は観察されず,血管密

れた(19).なお,本糖尿病モデルにおいて網膜血管拡

度は健常ラットと同等であった(図 2A).一方,内皮

張反応が減弱する各種薬物の血圧に及ぼす影響は,健

依存性血管拡張作用薬であるアセチルコリン(ACh)

常ラットと同等であった.従って,網膜血管は,末梢

による網膜細動脈径増大反応は著しく減弱していた

血管よりも高血糖による障害を受けやすいことも示唆

(図 2B).本糖尿病モデルでは,血管拡張反応に一部

された.以上の結果から,糖尿病が発症すると,BKCa チャネルの機能障害による網膜循環不全が生じる可能 性があると言える. 慢性的な高血糖状態では,血管内皮増殖因子が増大 する.さらに酸化ストレスや炎症性メディエーターな どの増大により,糖尿病網膜症の発症や病態の進行が 促進する(21).そこで,本糖尿病モデルラットにおい ても酸化ストレスが亢進しているか否かについて検討 するため,網膜組織切片を作製し,免疫染色法を用い て観察した結果,酸化ストレスマーカーである過酸化 脂質の発現が,網膜神経層および網膜表層の細動脈で 増加していることが明らかになった.一方,網膜細静 脈における過酸化脂質の発現は増加しなかった.本糖 尿病モデルラットの網膜血管拡張機能障害は,網膜細 静脈では観察されず,網膜細動脈にのみ生じる(18). 従って,酸化ストレスの亢進が,網膜細動脈拡張能障 害を誘発することが示唆された.今後は,高血糖によ る網膜血管の BKCa チャネル機能障害と酸化ストレス との直接的な関与を明らかにし,抗酸化薬による治療

図 2 糖尿病モデルラットにおける ACh 誘発網膜血管拡張作用お よび網膜血管の構造

糖尿病発症 2 週間後において,健常ラット(Control),ストレプトゾト シン単独投与糖尿病モデルラット(STZ)およびストレプトゾトシン投 与に加えて 5%グルコース水を飲水投与した重度糖尿病モデルラット (STZ+Glc)における網膜細動静脈および網膜毛細血管の構造に顕著 な変化は見られなかった(A).この時の ACh 誘発網膜細動脈径増大反 応は,Control と STZ の間に差はみられない一方で,STZ+Glc では Control と比較して有意に減弱した(B).n=5.* P<0.05.(文献 18 より転載)

効果についても検討する必要があると考えている.

4. おわりに 糖尿病網膜症をはじめとする種々の眼疾患は,死に 至るような疾病ではない.しかし,これら疾患による 視機能の低下は Quality of Life を著しく低下させる原 因となる.近年,眼科領域において Quality of Vision

糖尿病網膜症の新規予防/治療薬の探索に向けて

という言葉が汎用されている.種々の眼疾患の早期発 見および早期治療を行うことにより,ただ「見える」 だ け で な く,「ど う 見 え る か」と い う「Quality of Vision」の低下を防ぐことができ,それが Quality of Life の維持や向上につながると考えられている.糖尿 病網膜症の初期の段階では自覚症状はない.そのため, 糖尿病を発症した場合,定期的な眼科検診が非常に重 要である.それでも糖尿病網膜症が発症した場合,発 生した新生血管の減少と新たな新生血管の発生予防の ためにレーザーによる網膜光凝固術が,さらに悪化し た場合には硝子体出血や網膜剥離に対して硝子体手術 が行われる(22).我々は,このような糖尿病網膜症の 後期の段階ではなく,発症する前段階に生じる網膜血 流の低下を防ぐことによって,糖尿病網膜症の発症と それに続く視覚障害を抑制できると考えている.今後 さらなる検討が必要であるが,我々が見出した網膜循 環改善薬や糖尿病ラット網膜血管機能障害に関する研 究が,新規糖尿病網膜症治療の開発に貢献できること を期待したい. 謝辞:本研究は科学研究費補助金 若手研究(B) (No. 24790261) , 基盤研究(C)(No. 21590102, 24590122 to K.I.)および北里 大学学術奨励研究資金(A.M.)の助成を受けて実施したもの である.ここに深甚なる謝意を表する. 著者の利益相反:開示すべき利益相反はない.

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1)厚生労働省 平成 18 年身体障害児・者実態調査結果. 2008. 3.24. 2)厚生労働省 平成 23 年患者調査結果. 2012.11.27. 3)中江公裕, 他. 我が国における視覚障害. 網脈絡膜・視神経委 縮症に関する研究. 平成 17 年度総括・分担研究報告書 ( 主 任研究者:石橋達郎). 2006. p. 263-267. 4)De La Cruz JP, et al. Diabetes Metab Res Rev. 2004;20:91-113. 5)Benedito S, et al. Exp Eye Res. 1991;52:575-579. 6)Haefliger IO, et al. Invest Ophthalmol Vis Sci. 1992;33:23402343. 7)Boussery K, et al. Invest Ophthalmol Vis Sci. 2002;43:3279-3286. 8)Delaey C, et al. Circ Res. 1998; 83:714-720. 9)Moncada S, et al. Pharmacol Rev. 1991;43:109-142. 10)Koss MC. Eur J Pharmacol. 1999;374:161-174. 11)Ogawa N, et al. Am J Physiol Regul Integr Comp Physiol. 2009;297:R968-R977. 12)Hardy P, et al. Circ Res. 1998;83:721-729. 13)Mori A, et al. Naunyn Schmiedebergs Arch Pharmacol. 2010; 382:119-126. 14)Mori A, et al. Eur J Pharmacol. 2007;570:135-141. 15)Miwa T et al. Eur J Pharmacol. 2009;602:112-116. 16)Mori A, et al. Eur J Pharmacol. 2009;616:64-67. 17)Oikawa F, et al. Naunyn Schmiedebergs Arch Pharmacol. 2012; 385:1077-1081. 18)Mori A, et al. J Pharmacol Sci. 2009;110:160-168. 19)Mori A et al. Eur J Pharmacol. 2011;669:94-99. 20)Mori A, et al. Naunyn Schmiedebergs Arch Pharmacol. 2011; 383:27-34. 21)Mima A, et al. Invest Ophthalmol Vis Sci. 2012;53:8424-8432. 22)日本糖尿病学会編集. 科学的根拠に基づく糖尿病診療ガイド ライン 2013. 2013. p. 85-95.

[Mechanisms underlying dysfunction of retinal blood vessels in diabetic rats].

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